初代様の自宅での祭りごとに集まる人々は増え続けていきました。はじめの頃は、神様をまつった八畳の部屋とその隣の六畳間を使って例祭を行いました。しかし、参拝者は二部屋の外にもあふれました。そこで初代様は、自分のお金で部屋を建て増しました。
信仰者の間では自分たちの手で新殿堂を建設しようという意見が出ましたが、初代様は、まだその時期ではないと言って、さらに部屋を建て増したのです。
こうした状態を見て、なんとかしなくてはと思う信仰者は数多くおりました。開教後、天心聖教の総裁になっていた一条実孝もその一人です。一条は初代様に、新殿堂を建てることを熱心に進言し、殿堂建設のために自ら寄付をおこないました。他の信仰者も自ら積み立てをおこなっていきました。この殿堂建設の話を聞いた都庁の役人に対し、初代様が、
「殿堂建設を口にすると、信者に金取り主義の邪教と間違われるから、信者で相当の御利益を授かった人からせめてその一部でも寄付をということとしたいと思っております」
と話しますと、役人は、
「これほど灼な宗教でそのような遠慮はいりませんよ。恵まれた方々が、神様に感謝して、自ら建設に協力しようとするのですから、心配はいりませんよ。それより、発表せずにあとでとやかく言われると、宗教監督官の我々が困りますよ」
と話し、その後、祭りごとに来て、「殿堂は教祖のものでなく、信者全体のものであるという」という演説を二回も行いました。
そして、1955年(昭和30年)12月に殿堂建設計画が役員会で正式に決定され、信徒の一致協力によって、1960年(昭和35年)5月11日に殿堂(旧本部聖堂)が竣工開堂したのです。
殿堂への遷座祭が終わると、羽織袴姿の64歳の初代様は、集まった信仰者たちに挨拶しました。
「初代信徒の皆さん、長い間、ご協力ありがとう。大神様はいともご満足です。今後ますますみ灼なるお救いをなされますから、役員方々は、これを機に、なお一層のご精進と活躍をのぞみます」
これが、天心聖教の由来です。(つづく)
信仰者の間では自分たちの手で新殿堂を建設しようという意見が出ましたが、初代様は、まだその時期ではないと言って、さらに部屋を建て増したのです。
こうした状態を見て、なんとかしなくてはと思う信仰者は数多くおりました。開教後、天心聖教の総裁になっていた一条実孝もその一人です。一条は初代様に、新殿堂を建てることを熱心に進言し、殿堂建設のために自ら寄付をおこないました。他の信仰者も自ら積み立てをおこなっていきました。この殿堂建設の話を聞いた都庁の役人に対し、初代様が、
「殿堂建設を口にすると、信者に金取り主義の邪教と間違われるから、信者で相当の御利益を授かった人からせめてその一部でも寄付をということとしたいと思っております」
と話しますと、役人は、
「これほど灼な宗教でそのような遠慮はいりませんよ。恵まれた方々が、神様に感謝して、自ら建設に協力しようとするのですから、心配はいりませんよ。それより、発表せずにあとでとやかく言われると、宗教監督官の我々が困りますよ」
と話し、その後、祭りごとに来て、「殿堂は教祖のものでなく、信者全体のものであるという」という演説を二回も行いました。
そして、1955年(昭和30年)12月に殿堂建設計画が役員会で正式に決定され、信徒の一致協力によって、1960年(昭和35年)5月11日に殿堂(旧本部聖堂)が竣工開堂したのです。
殿堂への遷座祭が終わると、羽織袴姿の64歳の初代様は、集まった信仰者たちに挨拶しました。
「初代信徒の皆さん、長い間、ご協力ありがとう。大神様はいともご満足です。今後ますますみ灼なるお救いをなされますから、役員方々は、これを機に、なお一層のご精進と活躍をのぞみます」
これが、天心聖教の由来です。(つづく)