1939年(昭和14年)の価格統制令によって、日本全国の各種業界は組合組織となり、すべての品物は配給制となりました。
初代様の雑穀業界も政府の命令に従って組合を設立し、初代様は、理事長に推薦されました。初代様は、統制令違反の疑いをかけられた組員のために、各警察署に出向いては理解を求めました。また、雑穀業界を代表して検事審議会へ出席し、統制法が実情にそぐわないことを説明したり、官庁へ出向いて交渉したり、大活躍をしました。
業界への配給問題や違反問題が一段落しましたので、初代様は、1941年(昭和16年)に雑穀業界の理事長をやめ、保養のために温泉をまわったりして、1年以上ぶらぶらと暮らしていました。やがて、1942年(昭和17年)になり、その年の6月のことです。当時、働き盛りの46歳だった初代様は、「こんなことでは生きていても意味がない。何か働かなくては」と煩悶するようになり、
「神様。私がこのようにただブラブラしておりましては、社会の穀つぶしでもあり、またますますばかになるばかりでございます。せめてこの際、世のために益することでもありましたなら、どうかその仕事をお授けください」
と毎夜神様に祈り続けました。すると間もなく、初代様にはそれまでにまったく縁のなかった繊維関係の仕事を頼まれたのです。その仕事とは、繊維業界の大手五社を筆頭に、日本全国の業者を含めた繊維業界の統制組合を作ってもらいたいというものでした。
初代様には、繊維業界の経験は何一つなかったので、再三断ろうとしましたが、繊維大手会社の重役から熱心に頼み込まれたましたので、神様に祈り、勇気を出してこの仕事を引き受けました。その結果、それから半年後の1942年(昭和17年)の12月に、繊維統制組合が設立されました。
初代様の雑穀業界も政府の命令に従って組合を設立し、初代様は、理事長に推薦されました。初代様は、統制令違反の疑いをかけられた組員のために、各警察署に出向いては理解を求めました。また、雑穀業界を代表して検事審議会へ出席し、統制法が実情にそぐわないことを説明したり、官庁へ出向いて交渉したり、大活躍をしました。
業界への配給問題や違反問題が一段落しましたので、初代様は、1941年(昭和16年)に雑穀業界の理事長をやめ、保養のために温泉をまわったりして、1年以上ぶらぶらと暮らしていました。やがて、1942年(昭和17年)になり、その年の6月のことです。当時、働き盛りの46歳だった初代様は、「こんなことでは生きていても意味がない。何か働かなくては」と煩悶するようになり、
「神様。私がこのようにただブラブラしておりましては、社会の穀つぶしでもあり、またますますばかになるばかりでございます。せめてこの際、世のために益することでもありましたなら、どうかその仕事をお授けください」
と毎夜神様に祈り続けました。すると間もなく、初代様にはそれまでにまったく縁のなかった繊維関係の仕事を頼まれたのです。その仕事とは、繊維業界の大手五社を筆頭に、日本全国の業者を含めた繊維業界の統制組合を作ってもらいたいというものでした。
初代様には、繊維業界の経験は何一つなかったので、再三断ろうとしましたが、繊維大手会社の重役から熱心に頼み込まれたましたので、神様に祈り、勇気を出してこの仕事を引き受けました。その結果、それから半年後の1942年(昭和17年)の12月に、繊維統制組合が設立されました。